どこで読んだ文章だったか忘れたが、こういうのがあった。(川北義則さんの本だったかも)
校庭のすみで、木の下に1人でたたずんでいる子供がいる。
お昼休みの時間に。
彼の家は貧乏で、毎日、弁当を持ってくることができない。
彼の友達が、彼がそうして1人ですごしていることを先生に告げる。
先生は黙って、その友達に弁当代を渡した。
翌日、また、彼は木の下に立っている。友達は、また職員室へ走った。
「そんなに気になるのなら、この問題を一生かかって考えなさい」
と、静かに厳しく言った。
読んでしばらく、考え込んでしまった。
貧しい人に援助を行う行為というのは、すべての場面で賞賛されるわけではない、と思う。
浅学なので、社会学も経済も解らないが、
かわいそうな人を助けたい
というのは、助ける側のエゴであり(だから、援助させてくださいとお願いするのが正しいんじゃないかな)、
また、対価を求めてはならず(相手が喜ばなくても一切不満を感じてはいけないし、そのことに文句を言うなんて絶対にいけない。)
援助したことをおおっぴらに言って回ったりしてはならない。
(公的な基金を介して行う寄付や、助けてくださいと頼まれた場合は、少し事情が違うと思うが。)
苦しいけれど自分でやり抜こうと思っている人が、
頼んでも居ないのにどこからか出てきた奇特なかたに援助を受け、
何故か涙され、哀れまれ、美談として人づてに広まったりした日には、
言いようのない憤りを感じるかもしれない。
こういう場合に、相手の立場を立てて黙してしまうのはむしろ弱者のほうで、
施した側は自分の美しい行いに酔っていて、多少の無礼は世間が許すでしょ みたいな
錯覚をしているかもしれない。
この話が、経済的な基準でものを見て話されているから、解かり難いのかもしれん。
美しさにおいての格差の話だったら、どうか?
世にも醜い男が居て、醜くない男が醜い男を哀れんで、
何か施しをしたいしたいと悩んでいたとしたら、どうか?!
そんな無礼な話はないと思うが。。
生涯関わる覚悟もないのなら、いっそ、冷たい通行人の顔をして、通り過ぎるか、
そこにコインを入れる帽子があるなら、情けや感情を見せずにそっと
今日一日の自分の食事代ぐらいのお金を入れるにとどめよう。
こんなことを書いたきっかけは、この記事。
http://blog.sakanoue.com/archives/51298718.html
娘さんにあたってしまうくだりを読んで、少し違和感を感じたので、つい、書いた。
ちなみに、僕の知人は、人知れず、たくさんの寄付を、世界のいろんな基金に宛てて、行っているようだ。
その感覚についてたずねると、「俺の持ってるお金が役に立つんなら使ってくださいっ てかんじだな」と
その人は言っていたように記憶している。
この2者は、ぜんぜん違うと思った。
僕はその知人の、そういうケタの大きなところが好きだ。
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