2009年7月28日火曜日

ヒューマニティ

どこで読んだ文章だったか忘れたが、こういうのがあった。(川北義則さんの本だったかも)

校庭のすみで、木の下に1人でたたずんでいる子供がいる。

お昼休みの時間に。

彼の家は貧乏で、毎日、弁当を持ってくることができない。

彼の友達が、彼がそうして1人ですごしていることを先生に告げる。

先生は黙って、その友達に弁当代を渡した。

翌日、また、彼は木の下に立っている。友達は、また職員室へ走った。

先生は、

「そんなに気になるのなら、この問題を一生かかって考えなさい」

と、静かに厳しく言った。

読んでしばらく、考え込んでしまった。

貧しい人に援助を行う行為というのは、すべての場面で賞賛されるわけではない、と思う。

浅学なので、社会学も経済も解らないが、

かわいそうな人を助けたい

というのは、助ける側のエゴであり(だから、援助させてくださいとお願いするのが正しいんじゃないかな)、

また、対価を求めてはならず(相手が喜ばなくても一切不満を感じてはいけないし、そのことに文句を言うなんて絶対にいけない。)

援助したことをおおっぴらに言って回ったりしてはならない。

(公的な基金を介して行う寄付や、助けてくださいと頼まれた場合は、少し事情が違うと思うが。)

苦しいけれど自分でやり抜こうと思っている人が、

頼んでも居ないのにどこからか出てきた奇特なかたに援助を受け、

何故か涙され、哀れまれ、美談として人づてに広まったりした日には、

言いようのない憤りを感じるかもしれない。

こういう場合に、相手の立場を立てて黙してしまうのはむしろ弱者のほうで、

施した側は自分の美しい行いに酔っていて、多少の無礼は世間が許すでしょ みたいな

錯覚をしているかもしれない。

この話が、経済的な基準でものを見て話されているから、解かり難いのかもしれん。

美しさにおいての格差の話だったら、どうか?

世にも醜い男が居て、醜くない男が醜い男を哀れんで、

何か施しをしたいしたいと悩んでいたとしたら、どうか?!

そんな無礼な話はないと思うが。。

生涯関わる覚悟もないのなら、いっそ、冷たい通行人の顔をして、通り過ぎるか、

そこにコインを入れる帽子があるなら、情けや感情を見せずにそっと

今日一日の自分の食事代ぐらいのお金を入れるにとどめよう。

こんなことを書いたきっかけは、この記事。

http://blog.sakanoue.com/archives/51298718.html

娘さんにあたってしまうくだりを読んで、少し違和感を感じたので、つい、書いた。

ちなみに、僕の知人は、人知れず、たくさんの寄付を、世界のいろんな基金に宛てて、行っているようだ。

その感覚についてたずねると、「俺の持ってるお金が役に立つんなら使ってくださいっ てかんじだな」と

その人は言っていたように記憶している。

この2者は、ぜんぜん違うと思った。

僕はその知人の、そういうケタの大きなところが好きだ。

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