2008年10月26日日曜日

techno

酔わんと書かなくなってきたが、仕方ないかもしれん^^;

1980年発売の、ULTRAVOX  "vienna"について。

80年というと私は12歳。
松原市にあった生家(大きな家)の2階の6畳間の窓際に大きな本棚を横倒しにし、本とおもちゃをしまって、自分の本棚をオーガナイズする楽しみ初めて感じたころ。

当時父親からもらったばかりのテクニクスのチューナーアンプとレコードプレイヤーを、雨の日にはふきんで磨いて、FMアンテナは軒にはりめぐらし(そのために窓の木戸にはアンテナ線とを通す溝を掘った)、FM大阪に聞き入っていたころ。

ある雨の日の放送。エアチェックがしたいと駄々をこねて買ってもらったカセットデッキ(詳細は確認中^^)で、おそらく初めて本番録音をしたのがこのアルバム。番組では全曲を流していて、たしか、合間か終わりに、「第2期ウルトラヴォックスの・・・」と女性DJの解説が入っていた。

アンプをつけて同時にカセットデッキの電源を入れ、FMの音声が聞こえ始めた瞬間に耳に飛び込んできたのは、たしか「Mr.X」あたりだったと思う。

全身がしびれるほどの衝撃を受けた。録音せんと!!!!と反射的に感じ、買ってもらって大事に取ってあった、TDKのD60テープに、録音を始めた12歳のかわいい私がいた。

放送が終わるまで興奮しっぱなしで、テープの終わりに裏返す瞬間にはかなりの緊迫感をもって臨んだ。

28年たつが、いまでも、このアルバム「vienna」は、すばらしい輝きを持ってる。

タイトルチューンのVienna

細野晴臣先生もULTRAVOXには多大な影響を受けているそうな。

ギターのカッティングではこれに勝る曲はほとんど無いと思うNewEuropeans

ビデオが28年前とは思えないAstradyne

2008年8月31日日曜日

アイスコーヒー

リアルで僕を知る人にとっては、僕が喫茶店のレビューをするのは違和感があると思う。酒のイメージがあると思うから^^;
でも、サービス業に興味を持った一番最初のきっかけは、予備校時代の喫茶店のバイトなので、ぼくは、酒の飲みかた(バーテンダーとしてのサーブのしかたは経験が無いので(汗))よりコーヒーの淹れ方のほうが理屈は言える(笑)

§
近所に最近出来た喫茶店(一凛さん:リンクすると色々あるのでサイトはご自分で探してね)に相方と娘と姉と行って見た。

お店に入ったのは土曜の15時過ぎ。駐車場は満員ちかく、「繁盛してるんやね~」とか話しながら玄関へ。

満席で少し待った。(レジ近くで待つ間子供の絵本が利用できるのはポイント高い^^)

内庭に面する席に通していただき、姉はサンドイッチ、相方はフルーツタルト(フルーツは娘のおやつ)、僕はショーケースで一番目を引いたクリームチーズタルト。相方は紅茶(ウバ)で僕はアイスコーヒーをオーダー。

フレンチレストランの味の値踏みはコンソメ、バーのよしあしをはかるのにはジントニックという話はよく聞くが、喫茶店はなんやろう。。。

#このカテゴリ「うまかったログ」を作ったキモチを少し説明しておくと。。
・自分の備忘録・お気に入りリスト
・飲み食いに関する記事の評判(オフ)が良いので、きちんと書こうかな
えて吉さんブログに感化を受けてる(飲み食いに欠ける情熱は、まずかないませんが)

僕は、「アイスコーヒー」で判断できる部分が大きいと思います。

な~んも考えずに、豆やさんがもってきてくれるアイスの豆を挽いて淹れると、”アイス豆くさーい”アイスコーヒーになります。僕が始めて喫茶店修行した”Lake Louise”でも、臭みを抑えるためにアイスをネルで落とす(ドリップする)時には、ホット用の豆を混ぜてました。

でもね、混ぜてもアイスくさいんですよね。濃いというか。

それを嫌う人のために水出しとか色々ありますが、ここの店のアイスコーヒーは、エグ味も臭みもなく、クリアなコクを楽しめる、とてもおいしいアイスコーヒーです。

小さいキューブアイス入りのグラスと、小さなピッチャーに入ったアイスコーヒーが別にサーブされます。これだけで、アイスを侮ってない喫茶店だと感じます。

ピッチャーは250mLいり。 十分です。^^

氷ばっかりで悲しい気持ちになるアイスコーヒーとは明らかに一線を画します。

そして、おいしいのです。

結構大きいポーションのクリームチーズタルトを平らげるにあたっても、飲み物が足りなくなることなく、存分にやさしくてクリアなアイスコーヒーを楽しむことが出来ました。

このコーヒーがタルトを引き立てたとも言ってもいいでしょう。
(実際タルトは甘みが抑え目でとてもおいしかった)

23時まで開いてる、きちんとした喫茶店。

僕はお勧めできます。

2008年8月12日火曜日

ユーモア

ユーモアとかマナーとか英会話とかをテーマにした記事で時々見かけるこのエピソード。
本当だったらあまり笑い話にならんなあ。

日本の森首相は英語ができないのだが、沖縄サミットを主催するにあたって簡単な挨拶ぐらい英語でと考え、    "How are you?"    "I'm fine. And you?"    "Me, too."    と続く一連の挨拶の集中講義を受けた。クリントンと会った森首相はさっそく成果を披露。

    【森首相:(手をさしのべながら)】 "Who are you?"    【クリントン大統領:(少々驚きながらもほほえんで)】    "I'm Hilary Clinton's husband."(私はヒラリー・クリントンの夫です)    【森首相:(戸惑いつつもほほえみを返し)】"Me, too."


2000年8月3日の産経新聞によると、この「ジョーク」の作者は台湾の著名な有識者で、オリジナルはアジア某国の元大統領が失言の主という設定だったという。発言の時期や場所まで変えられて、国際的伝言ゲームの様相を呈しているこのジョーク、信憑性がありそうに聞こえるところが情けない。ちなみに、外務省がそういう事実はない、と必死で否定したという。

Me,tooでほかにもジョークがある。

公衆便所で用をたす男。

背後からホモの男性が突然抱きつき、用を足している男を襲おうとする。

襲われた男は、ホモ除けにと友人から教わったフレーズを思い出した。

「Stop! Stop it! I'm AIDS!! 

こう言えばたいがいのホモは恐れをなして行為をあきらめるそうだよ」

背後から執拗に抱きつくホモにこう浴びせかけた。

「Stop! I'm AIDS! Stop it!!」

背後から、荒い息遣いとともに帰ってきたのは、想定外の言葉だった。

「Me,too.」

 

 

 

 

 

2008年4月13日日曜日

辛抱

辛抱は美徳だと教えられてきた。

感情を抑え、腹を立てず、相手の立場に立ち、少々いやなことがあっても辛抱して人と仲良くするのが美しいことと教えてもらったが、本当にそうなのか、最近になって疑問を抱くようになった。

そんな怒りを抑える辛抱はどうでもいいのだ。ある程度は出来て当たり前。もっと違うところで、辛抱だ。

あいまいな言葉で、努力することが美しいとか、人の信頼を得ることが大切だとか、前向きに努力を続ければかならず人生のどこかで報われるとか説かれる。その努力がなかなか実らないで、挫折しそうになると、

「それは己の努力が足りないからだ」とさらに叱咤される。

そういうものか、と、また眼をつぶったまま走り始める。

崇高で大きな目標をもち、それに到達するまでの具体的なプランをもって、少しずつ夢を実現しているスマートな社会人が良しとされ、個性を発揮し、人に勝ち、富を得、裕福に暮らすことこそ21世紀の社会人の目指すべき姿だと、たくさんの雑誌や本が毎週のように宣伝し、そうなるための「裏技」「徹底特集」の記事が書店の雑誌の表示やニュースサイト、SNSのトップを飾る。

そんな記事に眼がくらんでいる読者のほとんどは、実際には、交渉や議論がおっくうで言いたいことも程々にしか言えず、与えられた仕事や定義しやすいタスクを消化することで日々の達成感を得ている毎日なのに、実はそれがいやで、目先だけでも変えたい、と雑誌の啓発記事を手に取り、読んで気分に浸っているだけではないのかと想像する。

そうでない人は、成功に「裏技」などなく、雑誌の目玉記事に簡単に掲載される程度の情報で人生が劇的に変わることを期待するほうが非現実的だと知っているだろう。

往々にして、平穏に運営できている組織はたちが悪く、「皆さん、刀は抜かないでおきましょうね」と暗黙の約束で物事が進む。「これをあいつに指摘したら、おれも痛いところを突かれそうだから、今回はだまって過ごすか」「これをそっとしておいて上げれば、こんど俺が困ったときにお願いをしやすいな」生ぬるい湯の中で腐った卵みたいな。

極端に平穏にすすめようとする必要はない。結果として平穏なのはそれはそれで良いが。たくさんの人が集まってひとつのことをやるのに、意見がぶつからないのは、全員じつはお釈迦様なのか、または全員本気でやってないだけだ。

正論という大きい刀を振り回すだけではなんにもならないことぐらいわかってる。その刀を抜くことが大切なのではない。誰しも心に正義の刀を持っていて、お互いがその刀の存在を理解していて、お互いにその刀を抜かせないように、お互いがその刀を抜かずに済むように、きちんとしたモラルを持ちたいものだ。

目の前で行われていることが、どうしても正しいことと思えないなら、正義(と自分が信じている)という名の刀を抜き、納得行くまで議論をしよう。そうしてしまうことで巻き起こるいろんな面倒が怖くてついつい知らん顔をしてしまうが、その恐怖を辛抱すれば、必ず、物事は前に進む。よくなる。

だから、恐怖に負けて沈黙してはいけない。見てみぬ振りはいけない。

辛抱とは自分の恐怖心を殺さないといけないときにするもんだと思う。

2008年4月2日水曜日

腐臭

驚いた。

辛らつで誠実な助言をもらって、振り返ると、わが身が、驚くほど腐っていた。頭に、腐臭の漂うなにか黒い塊をイメージした。

いままでに、何度か、「いったん、自分で長所だと思っているところを全部忘れて、ゼロから考え直そう」と試みたことがある。

初めの一度は、のぼせ上がっていた学生時代の終わりごろ。自分が長いこと学校でいじくった矮小な知識など、どこに出ても通用しないのだとはっきり思い知り、それなら、と、就職活動も公務員受験もやめ、慢心したり思い違いしたりしないで済みそうな、(むしろ当時は体力に自信がなかったので、劣等感をばねに持続力を出せそうな)手と足と体を使う仕事を始めた。

 

何年か置きに、いろいろなきっかけで、自分の勘違いに気づき、こういう、いわゆるリセットをしてきたが、不惑を間近に控えた今、もう一度その機会は、突然やってきた。

 

取り返しのつかないポイントに来ていると思う。望むらくは、取り返しのつかない崖の際でいまそれを知ることが出来たのだと思いたい。つまらない気持ちで老いてゆきたくない。娘の人生にとって何かしらの道しるべであるような、そんな、残りの人生にしたい。

そのために今回も、きちんとこの問題に向き合って、軌道修正をして、少しでも明るい未来にしたいと思う。

 

前回のWさんのコメントにもあったが、人は常に選択しているという。言葉を発するときも、目の前の出来事に対して自分の考えや姿勢を示すときも、つねに、なにかしらの選択をしている。ここのところの僕は、いつも、いくつかの選択肢の中から、どちらかというと謙虚ではない選択肢を選んできたように思う。というよりは、一番謙虚な選択肢をまず捨てて、残りの中から選ぼうとしていたのではないかと思う。

 

そんな人じゃなかったのに。なかったつもりだったのに。

 

なんだろう。なめられてると感じてそれがいやだったのか、自分の存在意義を確かめたいのか、無理やりアピールしようとしていたのか、自分を見てほしかったのか。きっかけはなにかそういう心の動きがあったのかもしれない。

謙虚さを失うことで、見えなくなるものがあるということを、体験した。

 

1つ前の記事と正反対の方向なのかもしれない。

ネット上に、「謙虚」をテーマにした文章があったのでここに引用したい。

↓↓

 

人間とは、実はデフォルトでは、ありのままを認識できない性をもった罪深い生き物だ。    「人は誰でも2つの籠をさげている。前に一つ。後ろに一つ。前の籠には自分の長所というボールが、    後ろには自分の欠点というボールが入っている」    つまり、人は自分の間違いには盲目なのだ。    「自分だけは善である」「自分が思っていることは正しい」と盲目的に思い込んでいる。    鳥が泳げないことを魚が笑い、魚が歩けないことを犬が笑い、犬が飛べないことを鳥が笑うようなものだ。    お互いがお互いの無能さを糾弾し、存在を否定する。    放って置けば、人間はありのままを見ることができないのだ。    自分が見えること、感じることが、考えることが、全てだと思い込み、その偏った狭いものさしで、    他人を評価し、批判し、否定する。

  

つまり、人は誰しも、    「独り善がり」という幻想に囚われる盲目者なのだ。    自分が、ありのままだと思っていることは、ちっともありのままではない。    自分だけが正しいと思っている、独り善がりな幻想だ。    「独り善がり」な妄想から目を覚まし、ありのままを見ようとすることが「謙虚」    になるということの意味だったのだ。

  

【独り善がりの4大典型】

  

今度は具体的に    僕が感じてきた「独り善がり」に他人を否定する4つの典型要素を挙げる。

  

  1. 社交性 ⇔ 集中力        社交的な人が、社交的でない人を一方的に否定する。      自分が集中力に欠け、考えが浅いことに気づかないままに。              集中力のある人が、集中力のない人を一方的に否定する。      自分が社交性に欠け、人の輪をつくるのが下手なことに気づかないままに。      
                                          
  2. 論理 ⇔ 感情        論理的な人が、非論理的な人を一方的に否定する。    自分が人の感情を読み取る感受性を持たないことに気づかないままに。              感情を敏感な人が、感情に鈍感な人を一方的に否定する。    自分が論理的一貫性のない支離滅裂なことを言っていることに気づかないままに。   
                                          
  3. 現実 ⇔ 理念        細かいことに几帳面な人が、理念的な人を一方的に否定する。        自分が物事の本質が分からず、表層に捕らわれる小人であることに気づかないままに。              理念的な人が、抽象的概念を理解できない人を一方的に否定する。    自分が頭でっかちで現実性に欠ける役立たずであることに気がつかないままに。    
                                         
  4. 堅実 ⇔ 柔軟        堅実性を重んじる人が、堅実性に欠ける人を一方的に否定する。      自分が柔軟性に欠け、融通の聞かない頑愚であることに気づかないままに。          

    柔軟性を重んじる人が、柔軟性に欠ける人を一方的に否定する。      自分が、行き当たりばったりで、ずさんな仕事をしかできないことに気づかないままに。

     

互いに欠けている点を否定しあっていたら、この世には誰も残らない 

。    他人の欠点に腹が立って仕方ないときは、自分の欠点を周りの人が許してくれていることを    思い出すがいい。 

↑↑

「ありのままを見る」ということを、しばらく、きちんとやってみることにしよう。まず自分の+も-も、きちんと正面から見るということにしよう。

岡田斗志夫さんの「いつまでもデブと思うなよ」のなかで、肥満の人を多重債務者にたとえて説明しているくだりがあった。

多重債務者は、自分の借金が今日現在でいくらか、一日いくらの利息を払っているか、どうやれば何年で完済するかなんて計算しないのだと、岡田氏は書いている。それは、知ってしまうのが怖いからだ、と。肥満も同じ。肥満の人は、自分がどの程度カロリーオーバーなのか、一日どれくらい食事を減らしてどれくらい運動を増やせば健康に減量できるか、知るすべはあるのに、知ろうとしない。

   あまり、いっぺんに消化しようとするのをやめておく。

もう少し、よく考えよう。

  自分が偉くなったような勘違いをしていたこの愚かな年月をよく振り返り、きちんと反省を次に生かすことで、この年月の愚行の罪滅ぼしにしよう。

2008年2月25日月曜日

サービス

GIGAZINEさんの記事魔法瓶が壊れたので「タイガー魔法瓶」に修理依頼をしてみたよレポート が印象に残った。

タイガーさんの修理サービスはすばらしいことがわかったが、では顧客満足を得るサービスのためのポイントとはどんなところだろうか。
簡単に思いつくのは、
・消費者の観点で不便を減らしてある
・消費者が大事にすることを、サービス提供者もいっしょに大事にする
・手続きや取引をスムースに進めるための目新しい工夫が1つ以上ある
・サービス提供者が行ったことを出来る限り詳しく開示、説明している
といったところだろうか。これがホテルマンなら鬼軍曹のような先輩に「あたりまえ」と言われかねない内容だが、利用者が不便さに気づく前に、それを完全にカバーする対応を案内し、実行する というのは、一朝一夕にできるものではない。
この修理サービスのスキームを練り上げた人は、ホテルで言うとコンシェルジュのようなセンスだなと感じた。

顧客が何を求めているかの研究を、うちももっとすすめないと。

ふと思い出して、少し前に買ったこの本を振り返った。

顧客のニーズに細やかに応えることで成功した事例が満載されていて参考になるが、成功体験の追体験はそうそう簡単にうまく行くものではない。
あくまで参考にしたいと思う。

Roman Andren -JUANITA-

時間つぶしに立ち寄った梅田のTOWER RECORDSで、Roman Andrenを聴いた。

このアルバムをディスプレイしてあるラックにド派手なコメントのPOPがあってちょっと引いたが、買ってみると、なるほど、きれいで丁寧な音作りで、安定感も色彩もある。とても気に入って、この週末、娘をだっこしている間ずっとリビングに流してた。

アルバム JUANITA のタイトルは彼の愛娘の名から取ったそうだ。
 2.Bumblebee 
 4.O Sapo
 9.O Mundo  É Seu
が特に惹かれるナンバーで、清潔感があってやさしい恋人と午後のひと時をゆったりと過ごしているような気分にしてくれる。
なんともスマートなAndrenの鍵盤捌きは、まさにTowerのPOPどおりで、独りよがりでない、よく抑えの効いたアドリブのような心地よい新鮮さ、構成や進行は様式美を求めるファン層にも受け入れられる誠実なつくり。音色やリズム、フランジャーの係り具合も絶妙に70'sを思い起こさせる。

13.Love Has A Name
は日本向けボーナストラック。この曲だけほかと少し違うトーン。
ロバートパーマーのバラードのようなほろ苦いメロディーの感じと少し甘いヴォーカルが妙にバランスしていて、これが一番最新の録音なら、この曲で次のアルバムの方向性も少し見せてるのかな、とか、つい考えてしまった。

Towerに行って衝動買いも、いいもんだ。

2008年2月8日金曜日

選択

当たり前のことを当たり前に実行するためのメモを、少しずつ残してゆこう。

規模の大小によらず、システムを開発するときには、事前に決まっているはず(べき)ことがらがいくつかある。

  • 仕様
  • 品質基準
  • コスト計画
  • 開発期間(サービス開始日と設計開始可能日、製造開始可能日)
  • 使用範囲、稼働時間などの制限事項すべて
  • 停止時の対応方法
  • 開発の各パートの責任分担
  • 開発に当たっての優先事項
    (機能なのか納期なのか手段なのか、またはそのほかにあるのか)
  • 開発に至った背景

etc.

(もっと網羅的なリストに関しては、PMP関連の書籍に詳しいので当たってみてほしい。)

システム開発は、クライアントが、そのシステムを導入することによって利得(多くの場合は業務の効率化と精度アップ、スケールアップ)を得ることを前提にお話が始まるので、ここは最後までクライアントのメリットを追求しないといけないのだと思う。最後にあげた優先事項と背景あたりは、往々にしていい加減な扱いを受ける。ここにクライアントの魂がこもっていることが多いのに、だ。

 

SEの業界では、ここのところをきちんと咀嚼できてシステムの設計に反映できて実際にクライアントを喜ばせるSEをスーパーSEなんて呼ぶことがある。これが出来るSEは意外と少ないのだ。

ものづくり稼業を続けていると、新しくプロジェクトを手がけて、送り出して と繰り返すうちに、手がけているシステムの本当の姿を見失うときがある。クライアントと一緒に、そのシステムが動きはじめるところを、感動を持って見つめられるようなそんな心が、どこかでほこりをかぶったまま、存在さえ忘れられてしまうのである。

 

自分の喜びのポイントが、クライアントの満足とは離れてしまうときである。自分のものづくりスキルの自信が過信に変わったり、プロとしての矜持がいつの間にか高慢な心になったり、そういうことだ。

これは自分ではなかなか気づかない(だからこそそれは起こる)が、それはクライアントの眼から見れば一瞬でわかる。

自分のために仕事をするのは結構なのだが、仕事のアウトプットが自己満足的なものになっては、もはやプロではない。ましてや相手の立場や尊厳を傷つけては、すべてが台無しになる。

そんな事例を見かけたので、自分はこうなりたくないと強く感じた。忘れないために書き残すことにした。

460883462_f5fadb0d0b_m_d_2

2008年1月14日月曜日

ウルトラリアル

Ronmueckmakingof_2

Ron Mueckという人を知ったのはどこかのブログ記事。DIGITAL DJやったかな。

ものすごくリアルなシリコンモデルを、ちょっと変わったスケールで作るアーティスト。

まずはこれを見てほしい。右の写真は実は生身の女性ではない。

鬼才としか言いようがない。

リアルに物を作るアーティストはたくさんいるかもしれないが、それを、ちょっと(一部作品ではかなり)スケールをずらして、まず見る人の心に強烈なインパクトを与える。

動画に出てくる、巨大な少年なんか、子供のときに見ていたら夢でうなされただろう。

生まれて初めて女の子とキスをした日、初めて、数センチの距離で、その女の子のまつげの生え方や眼の周りの細かな起伏、髪の生え際なんかを見た。とてもきれいに出来ていて、飽きることなく長い間眺めていたように思う。今となっては少々きれいな人とお近づきになってもいちいちまつげがどうとかはなんとも感じないが、おそらくこういう芸術家は、観察眼がいつまでも風化しないから、どんなものでも自分の表現世界に結び付けてゆけるのだと思う。

ほかにもたくさんあるようなので、Mueckの世界にしばし足を踏み入れてることにする。

メモ:   GGL-pic  YTB

 

2008年1月13日日曜日

大好きだったけど。

フレッシュネスバーガーを時々利用していた。

(お察しのとおり、私が、大好きだったフレッシュネスバーガーにとてもひどくがっかりし、今後利用しないことに決めたいきさつを書いている。興味のない方は次の記事へどうぞ。)
 

 
フレッシュネスバーガー
「クラシックバーガー」が味もボリューム的にも気に入っていて、時々、お昼にテイクアウトしてオフィスで食べていた。

ある日の昼食に、以前から興味があった「クラシックWWバーガー」をテイクアウトしてみた。MACでいうビッグマックにあたる、一番大きなハンバーガー。

オフィスに戻って紙袋を開けると、ラッピングペーパー(F社ではこの紙に色々とこだわりがあるそうだがいまではとても疑問だ)2枚で包まれた大きなハンバーガーが目に入る。ほほの緩む瞬間だ。

旨そうなパティのにおいがいつもより強いのは、きっとそう、パティがWだからだ。

そうにちがいない。

ほんのりチーズの香りもただよう。

この店のたまねぎはサラシがあまく、とても辛くてにおいもきつかったので、今回もたまねぎ抜きで注文した。

ちょっとカロリーオーバーだがこれはかなりのお気に入りになるに違いない。。

 

では。

と、手に取った瞬間、指先に感じた強い違和感に、思わず手を離して、元の紙袋の中に落としてしまった。

「????!!」 包み紙が、肉汁でボトボトに濡れている。。。。2枚でラッピングしたのはこういう訳か。。

恐る恐る(机に汁がぽたぽた落ちたが仕方なかった)開けてみると、ぬれているというより、出来上がってから汁をぶっ掛けたように、広げた包み紙のシワをツツーっと汁が流れるほどにぼとぼとだ。

 

ハンバーガーファンならご存知のとおり、数あるハンバーガーショップの、いくつかのメニューでは、テイクアウトしたハンバーガーが、家に帰ったら肉汁や湯気でしっとりしてしまい、店で食べるのとは少し違った食べ物になってしまうことが少なくない。(とくに、モスやウェンディーズなどはさむ具材がリッチなものはこういう傾向がある。だからできるだけハンバーガーはできたてを可能な限り早く食べるほうがいいのだが。)

 

今回は別格。

バンズも、湿っているというよりは汁に浸したようにぐちゃぐちゃになっている。

とてもこれが正しい「「クラシックWWバーガー」だとは思えない。

 

オフラインで私を知っている人ならご存知と思うが、私はハンバーガー、ハンバーグが大好きである。作り方や材料に細かい知識があったり、ハンバーグを評価する組織に所属したりしているわけではないが、私が世界で一番好きな食べ物は、ハンバーグである。

だから、ハンバーグ関連で私をがっかりさせるような出来事には、できる限り遭遇したくないのだが、運悪く遭遇してしまった時に、その「がっかり」が、手抜きや怠慢によるものだったりすると、立ち直りがたいショックを(ごく短時間だが)受ける。15分ほど、悲しい気持ちになってしまうのだ。

今回は最悪の事態のようだ。

こんなボトボトは、包む時に、まず、気づく。はず。

そして、余分な汁をとるなど、対策する。はず。

持って帰ってこのお客さんがこの紙をあける時に、このバンズはもう、味噌汁の麩のように汁を吸ってむにゃむにゃになっているだろう。。そういうことも、想像がつく。はず。

食べる時に包み紙の四辺をうまく内側に折りたたんで、汁がこぼれないように、傾けないように口をできるだけ近づけて食べていると、手や頬やメガネに、おいしいパティのおいしい汁
が付いてしまい、それを洗面所で洗うのはとても面倒だということも、想像してほしかった。

その店に苦情を言いに行ってもそれは解決でないような気がした。

なにより、その、汁だらけのハンバーガーを店に持っていって、込み合っているカウンターで汁の説明をする中年男性(私)の、あまりかっこよくない状況を想像すると、とてもやりきれない気持ちになったので、この会社に事情を説明して改善して頂けるようにお願いをしようとおもった。

ホームページで消費者相談窓口を探したのだ。

しかし、フレッシュネスバーガーさんは「ご意見窓口」「カスタマー窓口」のようなものを一切持っていないようだ。

今のご時勢、消費者とやり取りをする窓口をもたないことには少し驚きだが、先のボトボトバーガーと、消費者窓口の記載のないWebサイトを見ると、消費者の立場で、食べる人の立場でものを考える会社ではないのだな、というのが感じられたので、内密に穏便にすませたほうが会社にとってもわたしにとっても、ちょうどいい解決になるのだというような優しい気持ちは何処かに吹き飛んでしまった。

 

憤りを抑えながら、両手を汁だらけにしながら、このさい略称に格下げの「クラWバーガー」をなんとか食べ終えることができたが、あんなに大好きだった肉厚のクラシックパティが二枚も入っているのにもかかわらず、おいしいとは全く感じなかった。
「食え」とばかりに、乱暴に目の前に食べ物を出され、甘んじてそれを食べているような、そんな気持ちになった。盛り付けの雑な料理は食べる人の喜びと感謝を踏みにじる。それと同じだろう。

「こんなもん食えるか!」と捨ててしまえるような心の持ち主であったなら、いくらか救われたかもしれない。 

 

私にできる精一杯のことは、『あんなものはもう食べない。』 

客商売で一番怖いのは、黙って離れていく消費者だ。

クレーマーなんて、親切なのだ。時間を割いて、詳しく事情を説明し、部外者なりにも会社の問題点を分析して一生懸命それを伝えようとする。いわばネガティブ要因専門の社外コンサルテーションスタッフだ。

私も、大好きなフレッシュネスバーガーがもっと良くなるように、「汁でボトボトではないハンバーガーのほうが、今より売れますよ、きっと」って、伝えたかったのだが、それをする手段がなくてとても残念だ。 

食べ飽きたはずのビッグマックの、どちらかというとジューシーではない薄いパティの味わいが、とても恋しくなった。

 

2008年1月7日月曜日

コラテラル

トップガンを観た時の衝撃はいまだ心に新しい。20年以上前になる。トムクルーズも若かった。家庭のAVはまだどこの家もVHSのビデオデッキで(たまにBetaも居たり)、テレビはブラウン管だった(一番人気はSONYのプロフィールだった)ころの話。もう20年も経ってしまったのか。

トム・クルーズは確かに男前と思うが、映画俳優としての彼を見る時には特に何の感慨も持っていなかった。俳優という職業をうらやましいと思ったことがないといえばうそになるが、容姿を一定に保ち、自分でないものを演じて生きるということに、興味こそ持てど、なってみたいと思ったことがあまりなかった。そのころの僕はまだ人生観もうまく出来上がってなくて、少しゆがんだところもあったのか、年を経た俳優は、重ねる年輪そのものが美しければ評価を受けることもあるだろうが、老いて小さくなると見捨てられる存在のようなイメージを持っていた。

ついこの間5回目を見たコラテラル(「巻き添え」の意)は、ストーリーが後半急展開して一件落着、ラストシーンは虚空に向かって主人公がテーマをつぶやく、言えばよくあるわかりやすい娯楽映画。僕のつぼをこういう風にヒットした。

  • (ガン)アクションが派手
  • 自分の恋愛経験のなかで経験したことのあるようなシーンが1つ以上ある
  • 怒っている人が登場する
  • あきらめる人とあきらめない人が登場する
  • 映像と音楽で強い緊張感を感じるシーンが2つ以上ある

並べてみると、なんとも単純な、僕自身こそアメリカ映画みたいだ。

2008年1月4日金曜日

Ferrari 412T2 咆哮

フェラーリ TIPO 044型エンジン 1995

1996~1997年ごろの、「CAR GRAPHIC」誌の創刊何周年かの記念の付録であったらしいミニCDが有る。

実物は手元に無いが、コピーが有る。

色々とF1のエグゾーストノートを収録したCDを買いあさったが、このミニCDほどの迫力のものは、無かった。

一番の感動は、長い長いクランキングの後、ティーポ044エンジンに火が入り、様子を見ながらレーシングする部分。冷えているフェラーリF1のエンジンのノイズは思いのほか大きく、タペット音らしきものがモロに聞こえる。「カチャカチャカチャカチャカチャカチャ。。。」大丈夫かと思うほど。聞くと、温間時(エンジンが実用温度になっているときのこと)にベストなクリアランスになるように、各部品の膨張率やたわみを精密に計算して仕上げられたチューニングの結果、こうなるのだそうだ。

次のシーンで、獣が甲高く咆哮するようなV12サウンドが聞こえると、全身鳥肌で、涙さえあふれる。絶対太刀打ちできない大きな獣に食いつかれたような、征服されたような気分になる。ferrari_412t2.jpg

それはそれはどう猛な獣で、どんな生き物も彼の前にはえさとなるほかないが、彼の中には最強の獣の哀しみがあり、彼が全速で駆けるときの音は、強者の誇りのほかに、息絶えるときまで勝利に貪欲でなければいけない自らの定めを嘆き、哀しむ響きがある。彼が彼であるためには勝ち続けるほかないが、そうしてどんどん彼の孤独は深まってゆく。ハイエンド(一番高回転の時)の音は、私にはそういう悲しい音にも聞こえる。

ferrari_412t295.jpg