「背水の陣」で有名な漢代の武将、韓信。
時の漢王、劉邦に重用された彼の、たくさんのエピソードの中に、こんなものがある。
劉邦はよく韓信と諸将の品定めをしていた。劉邦が韓信に「わしはどれくらいの将であろうか。」と聞いた所、韓信は「陛下はせいぜい十万の兵の将です。」と答えた。劉邦は「ではお前はどうなんだ。」と聞き返したところ、「私は多ければ多いほど良いでしょう。」と韓信は答えた。劉邦は笑って「ではどうしてお前がわしの虜になったのだ。」と言ったが、韓信は「陛下は兵を率いることが出来なくても将に対して将であることができます。これは天授のものであって、人力のものではありません。」と答えた。(ウィキペディアより)
歴史上の有名な武将や指導者の言葉に関しては様々な解釈や議論がつきものであるが、松下幸之助の「指導者の条件」の中での解釈は、以前書いた「フォロアーシップ」の観点に共通する部分がある。松下翁の解釈をさら僕なりに解釈するとこうだ。
人の上に立ち、物事を成し遂げるには、自分の部下に対してすべての面で勝っている必要は無い。個人の力の優劣と組織のヒエラルヒーを無理に重ね合わせず、自分の部下が最大限に実力を発揮できるように、上手に指導できることこそが大切なのである。
上司や将は、自分より優れている分野を持つ部下を恐れるのではない。その力を借りて組織全体の功績をさらに大きくすることが、その部下にとっても、組織にとっても、ひいては社会にとっても有益なのだということを、よく部下に説き、心置きなく力を発揮させる。そのことが大切なのである。
部下や臣(兵)は、自分の上司が自分よりも劣る面があるからといって、小さく評価したり、見くびったりするのではない。自分の得意分野での活躍を上司に提供することで、上司の影響力、指導力をさらに向上させることができる。上司がリーダーシップを果たす助けになることで、自らを高めることになるのである。
ボキャブラリ足らずで誤解を生む文章になっているかもしれないし、松下翁の書いた本来の趣旨から見ると拡大解釈になるが、劉邦と韓信のやりとりについては、私はおよそこのように解釈している。ドラッカーの言う「役割としてのリーダーシップ」もここに通じるものがあるのではないかと思う。
いろいろ書いてきましたが、ことリーダーシップやフォロアーシップ、組織論、人材育成に関しては、このサイトを訪れる諸兄のご意見を聞かせて頂いていて、さらに考えを深めることができたら、非常にうれしく思います。
woodstockさんとの会話はいつも知的刺激を受けるので好きです。
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