辛抱は美徳だと教えられてきた。
感情を抑え、腹を立てず、相手の立場に立ち、少々いやなことがあっても辛抱して人と仲良くするのが美しいことと教えてもらったが、本当にそうなのか、最近になって疑問を抱くようになった。
そんな怒りを抑える辛抱はどうでもいいのだ。ある程度は出来て当たり前。もっと違うところで、辛抱だ。
あいまいな言葉で、努力することが美しいとか、人の信頼を得ることが大切だとか、前向きに努力を続ければかならず人生のどこかで報われるとか説かれる。その努力がなかなか実らないで、挫折しそうになると、
「それは己の努力が足りないからだ」とさらに叱咤される。
そういうものか、と、また眼をつぶったまま走り始める。
崇高で大きな目標をもち、それに到達するまでの具体的なプランをもって、少しずつ夢を実現しているスマートな社会人が良しとされ、個性を発揮し、人に勝ち、富を得、裕福に暮らすことこそ21世紀の社会人の目指すべき姿だと、たくさんの雑誌や本が毎週のように宣伝し、そうなるための「裏技」「徹底特集」の記事が書店の雑誌の表示やニュースサイト、SNSのトップを飾る。
そんな記事に眼がくらんでいる読者のほとんどは、実際には、交渉や議論がおっくうで言いたいことも程々にしか言えず、与えられた仕事や定義しやすいタスクを消化することで日々の達成感を得ている毎日なのに、実はそれがいやで、目先だけでも変えたい、と雑誌の啓発記事を手に取り、読んで気分に浸っているだけではないのかと想像する。
そうでない人は、成功に「裏技」などなく、雑誌の目玉記事に簡単に掲載される程度の情報で人生が劇的に変わることを期待するほうが非現実的だと知っているだろう。
往々にして、平穏に運営できている組織はたちが悪く、「皆さん、刀は抜かないでおきましょうね」と暗黙の約束で物事が進む。「これをあいつに指摘したら、おれも痛いところを突かれそうだから、今回はだまって過ごすか」「これをそっとしておいて上げれば、こんど俺が困ったときにお願いをしやすいな」生ぬるい湯の中で腐った卵みたいな。
極端に平穏にすすめようとする必要はない。結果として平穏なのはそれはそれで良いが。たくさんの人が集まってひとつのことをやるのに、意見がぶつからないのは、全員じつはお釈迦様なのか、または全員本気でやってないだけだ。
正論という大きい刀を振り回すだけではなんにもならないことぐらいわかってる。その刀を抜くことが大切なのではない。誰しも心に正義の刀を持っていて、お互いがその刀の存在を理解していて、お互いにその刀を抜かせないように、お互いがその刀を抜かずに済むように、きちんとしたモラルを持ちたいものだ。
目の前で行われていることが、どうしても正しいことと思えないなら、正義(と自分が信じている)という名の刀を抜き、納得行くまで議論をしよう。そうしてしまうことで巻き起こるいろんな面倒が怖くてついつい知らん顔をしてしまうが、その恐怖を辛抱すれば、必ず、物事は前に進む。よくなる。
だから、恐怖に負けて沈黙してはいけない。見てみぬ振りはいけない。
辛抱とは自分の恐怖心を殺さないといけないときにするもんだと思う。