リーダーシップ論やフォロアシップ論のまえに、自覚 という言葉をもう一度復習しよう。
自分の感覚はもちろん自分にしかわからないが、自分が今どのように振舞っているか、周りの人たちとどのように和しているか、それとも困らせているか。この一年でいろいろと教わることもあり、今まで無かったような大きいものを任せてもらって、やりがいと達成感はかずかず得てきたが、適時振り返って自分を含む周囲を俯瞰し、一歩外側から冷静に判断する、自分を客観的に見ようとする そういうことができていたか。
否 である。
今気づいたのが遅すぎると考えると後ろ向きだろうから、じゃあここからどうやって盛り返すか。論ずるは易し である。人に道を説いている場合ではなかった。ましてや、進んで人の指導を買って出るようなところまで成長してはいなかった。とても恥ずかしい気持ちになった。
心に留めたい言葉があったので残しておこう。
仁
「仁は人の心なり、義は人の道なり」:孟子
仁とは人が人としてもたなければならない"良心、真心"、義とは人が人として踏まなければならない"正しい道"である。仁とは相手をおもんばかる心、かわいそうだと思う憐憫(れんぴん)の情であり、そうした仁があるからこそ、義としての善悪の判断がつくのである。
「義をみてせざるは勇なきなり」で、何が義であるかを決めているのは、人間としての思いやり、慈悲の心である。
弱きを助け強きをくじく行為は義侠心といわれるが、これとてその根底にあるのは思いやりの心である。「義に過ぐれば固くなる。仁に過ぐれば弱くなる」:伊達政宗
仁は優しく、母のような徳である。高潔な義、厳格な正義を、特に男性的であるとするなら、慈愛(仁)は女性的な性質である優しさと、さとす力を備えている。私たちは公正さと義で物事をはかるばかりでなく、またむやみに慈愛に心を奪われでしまうことのないように教えられている:「武士道」新渡戸稲造
武士たる者は、「智」によって「仁」と「義」のバランスをとり、どちらかにかたよりすぎてもよくない、と教えられたのである。「武士の情け」
武士にあっては、たんに女性的な慈愛ではなく、正義にもとづいた"厳しい愛"でなければならないといっている。儒教では人間の行うべき徳のトップに「仁」を置いているが、武士道では支配階級としてより困難な「義」を筆頭に持ってきたのである。いま、なぜ「武士道」か 岬龍一郎 致知出版社
引用の引用になってしまっているかも。
軍隊式に会社の組織を統率する必要はまったく無いが、統率に関して一番よく研究されているのは軍隊に違いないので、その理論は十分応用できる。少なくともリーダーシップにおいては、習うべき武将の行いや判断がたくさんある。
そんな、名将の言葉や行動をまとめたのが松下翁のいくつかの著書になっている。読むと非常に勇気付けられる。
上の引用の話に戻すと、自分の進め方が、非常に「仁」に寄った部分と必要以上に「義」に寄った部分があるのに気づいた。遅くは無いと思うので分析と軌道修正に励むことにする。
生家に古い大きな書があった。幅1600ぐらいあったろうか。縦は400ぐらいだろうか。額縁のついたその大きな書には、「仁者無敵」とあった。聞くと祖父は時代の生命保険業界で有名な営業マンだったらしい。祖父の部屋に大きく掲げてあった。そんな大きな書を掛けられるほど、鴨居の上は高かったし、部屋は広かった。
父にその意味を尋ねたのはたぶん小学2~3年のとき。「人間的にやさしくて思いやりのある人は、世の中で一番強くて偉い ちゅう意味や」と、たしか、当時35歳ぐらいだった父は私に教えてくれたと記憶している。
心に深く残るこの言葉によって、以後の人生で、やさしいことが最大の美徳と信じるようになったのだと思う。